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[Wittily]
夕立ちってのは厄介な相手で、そろそろひと雨ほしいって時に限って降らない。そして今日みたいな、傘を持っていないときには大喜びで急にやってくるもんなんだ。 駅からずいぶん離れたところにある友人のアパートの不便さを呪いながら、びしょぬれになった俺が駆け込んだのは、交差点に建つ十階建てくらいのマンションの入り口、ちょっとした庇が突き出てるところだった。アパートまであと五分は歩く。地面を激しく叩く雨粒の勢いにため息をつきながら、俺はポケットからタバコを取り出した。 手を突っ込んだ瞬間に嫌な予感がしたんだ。服の中まで雨が入り込んで、濡れていやがる。ちんけな百円ライターはどうにか情けない炎を上げてくれたが、タバコのほうが駄目だった。十円高いボックス型のを買うのをケチったばっかりにこういうことになる。いくら火を近づけても燃え上がる気配のない、よれよれの紙巻とシワの寄ったパッケージを、俺は舌打ちしながら目の前の水溜りに向けて投げ捨てた。 「吸われますか?」 目の前に突き出されたのは、まだ開けたばっかりのタバコの箱。いつの間に現れたのか、スーツを着た会社員風の男がすぐ横に立って、俺と一緒に雨宿りしてたんだ。昔の人間は上手いこと言ったもんで、捨てる神あれば拾う神ありってとこだな。 吸わない奴には分からんかもしれんが、喫煙者同士には妙な連帯感があるもんだ。火がつかないライターに苦戦してるおっさんがいたら、見ず知らずの人間でもライターを貸してやるし、いま俺が陥ってるような状況でも、一本くらいなら分けてやろうって気になる。理不尽にも雨に降られてびしょぬれの人間がいたら、俺だってそのくらいはしたろうさ。 「あ、じゃあ一本。助かります」 そうやって何気なく礼を言って目を見れば、まあそれでお互いに意思の疎通は取れたってところだ。男は親切にもライターまで出してくれたが、それは結構と俺は自分のライターで、抜き取ったタバコに火をつけた。なじみのないメンソールの銘柄だったが、そこにケチをつけるようなのは礼儀に反してる。こういう場合はなんだっていいんだ。吸い込んだ煙の刺激と、濡れた肌を撫でる風のせいか、すっと体温が下がったような気がした。 さて、俺はこの救いの神にさりげなく目をやった。年は俺よりは上だろう、三十代の前半って所か。服装からして俺のような気ままな学生とは思えない。メガネをかけている色白の顔と、ほっそりした体型のせいか、知的な印象を受けた。うちの大学にもこんな風貌の院生がよくいるが、頭脳労働をする手合いだろうという風に感じたんだ。 俺がそんなことを考えながら横目で伺っていると、男もタバコをくわえると自分のライターで火をつけ、静かに最初の煙を吐き出した。同じ境遇にあるだろう者の、それと喫煙者同士という共通項の気安さか、俺はそれを見届けるとさりげない風に声をかけた。 「参りますね、急に降り出して……」 「まったく、ね。こう突然だと車でも前が見えない。交通事故でも起こりそうだ」 眉をひそめて答えた男を見て気付いたが、そいつの服は俺ほどびしょ濡れの状態にはなってなかった。いや、ほとんど濡れてないと言ってもいい。傘など持っている様子もないし…いや、だいいち傘なんてこの大雨の中じゃ役に立たない。頭上の庇を叩く音の激しさで俺はそう思いなおした。 交通事故……そういえば、前も友人の家に行ったとき聞いたが、ここは事故の起こりやすい四つ角だそうだ。一方の道が大きくカーブして侵入してくるので、信号無視がそのまま事故につながりやすいらしい。 さむけが、もう一度きた。急な雨で気温が下がっているせいだろうか……。 雨は弱まることなく降り続けてる。その雨音のやかましさ、交通量の多い目の前の道路を車が水を切りながら走っていく騒がしさ。だってのに妙な静けさ。周りの空気が重くなって音を伝わらせないようにしているように思えた。 「あそこに、自販機があるでしょう」 ぼそりと、男が口を開いた。横断歩道の向かい側にある、突然暗くなったせいで煌々と明かりをともした、タバコの自動販売機を指差してる。 「ええ……」 俺は上の空で答えたが、男は続ける。 「以前ね、こんな急な夕立の日だった。ここのマンションの住人がタバコを切らしたことがあったんだ。いつものように買いに出かけたら、エレベーターに乗る前は降っていなかったのに土砂降りだ。しかたない、ちょっと濡れるけれど……そう思って、信号が変わると同時に走って向こう側に渡ったんだ」 俺は指に持ったタバコの灰が落ちるのも気にせず、固まったままで聞いていた。どうにも、軽い世間話の域を超えているような気がしたが、タバコを一本恵んでもらった義理があったのか、特にさえぎるような言葉も出せない。だいいち、この土砂降りじゃどこへ行くこともできない。 「そしたらね、カーブのほうから突っ込んできた車が、ドーンと……地元の人間なら気をつけたんだろうけどね、あいにくよそから来たトラックだったらしい。信号も見えないくらいの雨だったから……それに、傘でもさしてれば目だったんだろうがね。タバコが我慢できずに、命を落としてしまったというわけだ」 それがそのときの花、と、男がガードレールにくくりつけられた花びんと、まだ新しい花を指差した。 「そういえば、今日がその命日だったんじゃないかな、ははは……」 そう言って笑い声を上げたが、俺はメガネ越しの目がまったく笑っていないのに気付いた。 ちょうどそのとき、雨足が弱まったことに気付くと、俺は「どうも」とかなんとかあいまいな礼を言って、また雨の中に駆け出そうとした。さすがにこいつは、冗談にしたって気持ちが悪いと感じたからだ。 「お互いタバコには気をつけましょう。それと、傘をささないと危ないよ」 そんな言葉を後ろからかけられたが、俺は急いで横断歩道を駆け抜けていた。渡り終えて振り向くと、もうマンションの入り口にその男の姿はなかった。 「とまあ、そんな話があったんだが……」 無事に友人のアパートに着いた俺はシャワーを借りてようやく人心地ついたところで、来る途中の奇妙な男の話をしてやった。そいつは本を読みながらつまらなそうに聞くばかりだったが、やがてため息をついて口を開いた。 「そりゃ、そこのマンションの住人だ。お前、からかわれたんだよ」 ……まあ、俺もそんな気はしてた。 「その作り話の中の、車にひかれた男と同じだろ。出かけようとしてエレベーターに乗ったら、急な夕立が降りだしてた。で、マンションの前で路上にゴミを投げ捨ててる馬鹿者がいたから、怖い話で怯えさせてやった、ってわけだ」 馬鹿者呼ばわりには頭にきたが、まあそんなとこだろう。たいていの女はこの手の幽霊話に喜んで飛びついてくるもんだが、こいつは……俺はテーブルの上にあったタバコを取り、火をつけた。 「おい、灰皿くれよ」 「ああ、洗って台所だ。ちょっと待て。ところで……」 友人は立ち上がってキッチンのほうに向かう途中、ドアのところで振り返って俺を見た。 「いつからそんなメンソールのタバコにしたんだ? びしょぬれのズボンのポケットの中にあったから、勝手に出してそこに置いといたんだけど。それにしても、そのタバコだけまったく濡れてないのは妙だな」 吸い込んだ煙が肺の奥のほうで体温を奪うのが感じられた。メンソールだからだ……俺は強くそう思うことにした。 #
by m_ot_i
| 2007-11-28 01:44
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