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[Self-destruction]
Scene 1 Pulick 出発したときには地平線から顔を覗かせたばかりだった太陽が、ここにたどり着いたときにはもう、ナツメヤシの高い幹を登りつめる所まで来ていた。 ヤシだけではない。オリーブ、アデニウム、それに色とりどりの花……若い実をつけはじめたザクロやイチジクまでもが、小さな泉の周りに群れ育っていた。 砂嵐の季節が終わったばかりの乾いた砂漠を、陽に照らされて歩いてきたばかりだというのに……あらかじめ先任の者に聞いていた話とはいえ、私は驚きを禁じ得なかった。 泉のほとりの砂地に膝をついて手を浸してみると、驚くほど冷たい。立ち上がって辺りを見回しても、周囲は石造の小さな平屋と長屋が泉を囲うように二棟あるばかりで、荒野の中で完全に孤立している。ブンブンと小さな音を立てて飛び回っているのは、虫、いやハチドリか……私は命の気配の豊富さに、不思議な落ち着きを感じた。 「ようこそ、旅の方! 砂嵐はもうすっかり止んだのね!」 オリーブの木陰から漏れる陽の光を見上げていたら、後ろから弾んだ調子の高い声が飛んできた。私は振り返り、シーツのようなものを山ほど腕に抱えながら小屋の戸口で微笑む、小柄な女性の姿を目にした。思っていたよりも、若い。所帯を持った頃の私と同じくらいの歳だろうか。この地方では珍しい、金色の髪に白い肌、青みがかった瞳。泉のほとりに咲く花のような力強い色合いの薄絹を幾重にも重ねた装いもあまり見慣れないものだったが、弾けるような体の力をしっかりと覆っているように見えた。 彼女は人懐こそうな笑みを浮かべたまま近づいてくる。私も、砂よけの革帽を脱ぎながら微笑んで挨拶を返した。そう、湧き出る泉のもたらす心地よい冷気のように、周囲に広がる笑顔の持ち主だった。 「あら、郵便員の方なのね? そうか、イラッタさんは引退されたのね」 革帽に縫い付けられた郵便組合の帽章を見て取り彼女は言った。私は頷いて、今年からこの地方を担当することになったプリックだ、と自己紹介をした。 「プリックさん、お近づきになれてうれしいわ。さあ、まずは中でくつろいで下さいな」 彼女は振り向いて、今さっき出てきた石壁の建物に歩いていく。頭上で結われた髪は、日差しと風を受けて不思議な白金色に波打っていた。ハチドリたちが、自分たちの間借りしているこのオアシスの女主人のことを知っているかのように、彼女の周りを飛び回り、肩に止まったりさえしている。私を小屋の中に招きながら、大きな目を細めて言った。 「サミの宿にようこそ!」 分厚い石壁に遮られて、外の熱気はこの小屋の中までは入ってこないようだった。陽の光も同様で、戸口から差し込むまばゆさは部屋の隅までは届かず、低い天井に差し渡された梁の木組みから提げられた小さな角灯が、ちょっとした食堂風にしつらえられた三卓ほどのテーブルに柔らかい光を投げ落としていた。 汗を引かせて体を冷ましてくれるから、と素焼きのカップでサミが出してくれたのは、甘い香りのする香草で淹れた、熱いお茶だった。薄く青みがかった不思議な色は、彼女の瞳の色に似ていた。 「砂嵐が収まると最初に顔を見せるのは、いつもイラッタさんだったわ。郵便員の方がやはり一番に通られるの」 隅に設えられた厨房でこまごまと仕事をしながらサミが話しかけてくる。 老齢で職を退いた前任者もそう言っていた。北方の諸都市と南方の山脈沿いの集落を結ぶ伝信路がイラッタ氏、そして今は私の任地だが、間に横たわる荒野には年の半分以上、進む道すら見通せないほどの砂嵐が吹きすさぶ地域が横たわっている。おかげでその間は西の丘陵沿いに回り道をすることになり、片道でも半月以上は余計に旅程がかかってしまう。 だが季節が変われば、嵐が砂を運び去った後のごつごつした岩がちの荒野を縫い、まっすぐ南に向かうことができる。その途中にあるのが、このオアシスというわけだ。 「陽気な方でね、夜には少しばかり蜂蜜酒を飲むと、東方の国の歌を歌い出すの。イラッタさんの故郷なんですって。砂漠の夜に月がかかって、まるで川の流れみたいに光が遠くまで伸びていく、なんていう……そんな歌よ」 イラッタ氏は今では故郷に戻って、息子さんの家族と一緒に住んでいる、と聞いている。私がサミにそう伝えると、古い馴染みの便りに喜んだようで、瞳を輝かせた。 「そう、きっと月の川をたどって行ったのね。息子さんやお孫さんの話もしていたし……」 彼女は自分にもお茶を淹れると、私のテーブルの向かいに来て粗末な木の丸椅子に腰を下ろした。カップを握る小さな手の指は、細いが手先の仕事に慣れた者のように節くれだって見えた。一人でこの宿を切り回しているのは大変ではないか、と私は尋ねる。 「お客様を迎えるのが好きなの」 サミはそう言うと目を細めてお茶に口をつける。 「こうやって旅の人に遠くの国のことを聞くのもね。南の集落の市も回数が少なくなったし、東の街道を通る人も増えて、商隊も昔と比べると減ったけれど……」 確かに南方の山脈沿いでは、山中の塩湖から切り出す塩を中心とした大規模な市場が開かれていた箇所がいくつもあった。だが、海で産出される塩を東方の沿海国から輸入する交易路が盛んになり、次第にその数は減っていった。 しかし、私も詳しくは知らないが、それはここ最近の話ではないと思う。それにしては彼女はずいぶん若々しく見えるが……。 「こう見えて年寄りなのよ」 はぐらかすように微笑んで見せたサミの表情は、しかし先ほどまでの無邪気な表情とは違っていた。こう見えて……という言葉を裏書きするような、母親が子供に言い含めるような笑顔だ。 この話題に踏み込むのはやめておこう、と私は思った。話好きな人間にも、あまり触れたくない事柄があるものだ。とはいえイラッタ氏から聞いていた話だと、もう長いことこの場所で宿を営んでいるというので、それなりに年かさの女性だと思っていたのだが……。 今年の短駆馬の取引の値上がり、北の街で流行りの二弦鼓楽団の評判、私の家族の話……そんな他愛もない話をしながら彼女を見ていると、やはり若く見える。目元の皺は年齢から来るものでなく人懐こい笑顔のせいで、肉付きの良い体も不摂生のたるみでなく、みずみずしい肌に覆われている。 「さあ、プリックさん。今のうちにお部屋に案内しましょう」 話題が一区切りしたところでサミが立ち上がった。じろじろ観察していたのを感づかれたような気がして、私は少しどぎまぎした。 「混んでくると相室だったり、外のテントでお願いしたりするんだけど、一番乗りですからね……」 Scene 2 Scisur ようやくたどり着いた時にはもう満月が出ていたが、いつかのように背中越しに覗き込まれている感覚はなかった。こうして水面に映っているからだろうか……。 昼間の熱がまだ少し残っていたけれど、それもこの泉に近づくまでの話。名も知らない小さな虫たちの鳴き声が茂みや花の間から響いて、それが、心地よく冷えた空気を閉じ込める泡を泉の周りに作っているようにさえ思えた。 北の荒野から吹き流れていた強く乾いた風も、このオアシスに入ると柔らかく、湿った風に変わり、水面に映った月の輪郭をかすかに崩すだけだった。まるで満月が泉に飛び込んで水浴びをしているような……そんなつまらない思いつきに微笑んでいた。色鮮やかな花から漂う甘い香りのせいだろうか。あの乾いた城壁の街では感じなかった心の動きに、私は故郷のことをふと思い返す。森と山と海と、それにこの空気に満たされた潤いと……。 不意に、喝采と弦楽の調べが響いた。すぐそばにある石壁造りの小さな建物からだ。戸口からは弱々しい灯りと人々のはやし立てるような声が、月光の下のオアシスに漏れだしている。 私は傍らに置いた荷物を持ちなおし、日差しよけの頭巻布を脱いで髪を解くと、小屋の中へと向かった。 十人ほどの男女の視線を集めて、彼女がいた。奥の石壁の前に立ち、テーブルに着いた人々の拍手と指笛を受けながら。虹色の薄絹に包まれた胸の前に置いた手が、ゆったりと左右に開かれる。 髭を蓄えた老人がかき鳴らす六弦鼓の調べに乗せ、彼女は滑る様な脚の動きと共に体を揺らし始める。聞いたことのある曲だった。小鳥の歌、と言ったか……人里離れた水辺に住む孤独な小鳥に例えて、女の恋心を歌った譚詩曲だ。曲調は緩やかだが、弾むような高い音色が弦から響き渡り、手拍子もそれに合わせ、角灯に照らされた石壁に反響し、室内を満たす。 彼女の両の指先が空気に潜む何かを捉えるかのように、重々しく、しかし優雅に動く。翼の羽ばたきのようだ。私は気づく。時に素早く、時に革のサンダルの爪先だけで静止して体を支える足の運びは、あまり巧いとは言えない楽奏とも見事に一致していた。脈動と停止と、つまり激しさと静けさとが手拍子に合わせて交互に繰り返され、私は戸口に突っ立ったままでその動きから目が離せなくなっていた。 言葉よりもなお饒舌に語る滑らかな舞い。酒の席での余興だけとは思えないほど、際立ち、輝いていた。 老楽師はかすれるような声で歌い上げていたが、耳に留める者はいない。それよりも彼女の指先、爪先、力に満ち溢れた胴体がすべてを語っていた。打ち棄てられたような水辺で独り待つ軽やかな乙女の姿と、気丈に振舞うが寂しさを残して他は空っぽになってしまった心の裡を。 私はその動きから、弾けるような意思の奔流から目を離せなくなっていた。かすかな嫉妬と共に……私は、己の作るものに、これほど心を動かす何かを込めることができるのだろうか、と。 だが抱いたのは劣等感と言うよりは、挑みかかる心だった。やってみせよう、という。 彼女は夢見るような表情で踊り続け、薄く開いた瞳は青く光り、口元の笑みすらも無言のうちに、激情と、ほんの少しの諦めを映し出していた。やがて消え去るように弦の最後の一音が消えるとゆっくりとその動きを止め……再びの喝采の中、微笑を浮かべた。 今そこで羽ばたいていた小鳥ではなく、彼女の本当の笑顔、半ば照れ笑い、半ば誇らしげな笑みの交じり合った表情で。 お待たせしちゃって、と詫びながらサミと名乗った彼女、宿の女主人は私の着いたテーブルに料理の乗った皿を持ってきてくれた。料理と言っても、干し肉や酢漬けの瓜を山羊の乳から作ったソースで和え、硬く焼いた雑穀のパンに挟んだ簡単なものだったが、昼過ぎに携帯用の乾パンを歩きながら食べて以来の食事はありがたかった。 「もう他のお客さんは酔って寝ちゃったし、ゆっくりどうぞ」 空腹に耐えかねて飛びついた私をからかうように彼女は微笑んだ。 先ほどまで騒いでいた他の旅人たちはみな、隣の建物にある寝室に下がっていた。残っているのは旅装を解いたばかりの私と、ダンスの余韻か、まだ少し肌を上気させたままのサミだけだった。 「少しお話してもいいかしら。女の人の一人旅って珍しいから……北から来たんでしょう?」 食事を終えて落ち着いた私の前に、ふたり分の飲み物を持って彼女が座った。そう、ターブラの街から来たのだと私は答え、細長い陶器のグラスを受け取った。蜂蜜酒の甘さが、一日歩き通して疲れた脚と体に染み渡る。 南の山脈沿いに、変わった白い光沢の石材を産出する地域があると聞き、手に入れるために向かう最中だった。かつては建物の外装に使われていて、ターブラの街でも古い寺院では良く見られる素材だ。しかし最近はあまり使われないことから、あれほどの大きさの交易市でも扱わなくなってしまった。 「カナル石ね。ほらこれ」 サミは長い白金色の髪に挿した櫛を私に見せる。手の平ほどの大きさで、三つ又に分かれた優雅な曲線が頂部で渦を巻くように交わり、角灯の光を柔らかく反射していた。なかなか見事な意匠だと思ったが、これが建物への使用が廃れてしまった理由でもあった。柔らかく加工しやすいが、耐久性には欠ける。 「昔、装飾品の交易商人の方が泊まったときに頂いたの。それほど貴重なものでもないからって」 彼女は私と同い年くらいに見えるが、この種の装飾品が作られていたのはそれなりに昔だったと聞いている…………もっとも、いつごろのことか正確なところは私も良く知らないので口には出さなかった。 「あなたもこういうものを造るの? そのために行くのかしら。材料を探しに……」 櫛を髪に戻しながらサミが言うと、乳白色のそれは髪の色に溶け込んで見えなくなっていた。 材料として使うのは確かだが、こういった装飾品とは少し違って……家や街並みを模した彫刻のようなものを造るのだ、と答えた。 「まあ、それじゃ芸術家なのね……その黒い瞳、東の国の方かしら? もちろん私は行ったことがないけれど、美しいところだと聞いているわ。森には木がたくさん生えていて、家々はそれで造られているんでしょう……」 故郷の姿は目を閉じていても心に浮かぶ。どことなくここに……このオアシスに似ているのだと私は説明した。草や花の香り、木々を縫って注ぐ月明かり、泉から漂うあの冷たく湿気を帯びた空気……そういったものに、故郷の印象に通じるものがあるのだと。 私は彼女の故郷についても尋ねてみたが……サミは微笑んでいるばかりだった。 遅くに寝付いたこともあり……翌日の朝、他の旅人たちはすでに旅立ち、出立は私が最後になっていた。サミが見送りに出てきて、少しばかりの口糧と水を手渡してくれた。 「南へまっすぐ向かって……山脈の中で最も空に近い峰を目指していけば、今からでも陽の落ちる前には東に向かう街道に出られるはずだわ。それをたどれば小さな宿場の集落まではすぐ。あなたは足も長いし、そうはかからないかもね」 小柄な彼女は私を見上げるように言って、冗談めかして笑った。私は礼を言う。一晩の宿と食事と……それに、昨晩見せてくれたあの舞踏に対しても。 「あはは、とんでもない……私のなんて素人の遊びみたいなものよ。お客さんにはやし立てられると調子に乗って時々、ね……ターブラの街では、もっと素晴らしいものが見られるでしょう?」 美しさ、技巧の高さではなく、己の内面を見事に体の動きに仮託した、その感受性と純粋さにこそ心を動かされたのだと……私の目指すべきところも同じなのだと、そのつもりだったのだが、言わないでおいた。 「ではお気をつけて。あなたの探しているものが見つかるといいわね」 そう、それが見つかったときにこそ、本当の礼を述べるべきなのかな、と思った。 「あらいけない……まだ伺ってなかったわ。お名前は?」 「シズル」 「シズル」 彼女は爪先立ちになると、私の唇に、自分の唇で、軽く触れた。 「またいらしてね、シズルさん。サミの宿はいつでもあなたたちをお待ちしてるわ。あなたの故郷の海辺みたいに。風に乗って旅立った船が帰ってくる、港みたいに……」 Scene 3 Pichuen パイプから浮かぶ煙の向こうに見える荒野が、次第に夕暮れの赤に染まり始めた。ひと月ばかり前にここで見たオレンジ色の光景とはまた違う、鮮やかな赤色。 遠くの山脈から吹き降ろす風が砂を巻き上げ始めると、こういう色の夕陽になる。穏やかな季節がもうすぐ終わろうという兆しだ。 今年も、山地で取れる植物の実を商う交易をしながら南北を往復する時期は、無事に過ぎていった。北方の街で珍重される香料の材料になるのだ。私と同じくらい老いた小躯の荷役ラクダとともに、六往復。若い頃は宿で休んだりもせず、八度は行き来たものだが……私は昔を思い出しながら少しばかり苦い心持ちになり、パイプをふかした。煙草の葉には、ほんの少しだけ例の植物の実を乾燥させたものが混ぜてあり、甘い芳香が漂ってくる。 それを花の香りと勘違いしたのか……泉の周りを飛び回って蜜を集めていたハチドリたちも寄ってきては、様子が違うことに気づいて飛び去っていく。私は思わず微笑んでいた。 「ご機嫌ね、ピツェンさん!」 宿棟の入り口に広げられた日除けの天幕でくつろぐ私に、サミが声をかけた。取り込んだばかりの洗濯物を詰め込んだカゴは、小柄な彼女が抱えるにしては大きすぎるように見えた。私は軽く手を上げて応える。 小柄でも、たった一人でこの宿を切り盛りしているサミは、いつもハチドリたちのように忙しく動き回って働いている。私がここを訪れるようになってからずっと、変わらぬ姿で。 当時は私の娘のような歳だと思ったが……。 なんにせよ、南の山脈にたどり着く前の中継地点としてはありがたい存在だ。冷たい泉の水、緑にあふれた風景、ハチドリのさえずりと虫の鳴き声、狭くはあるが荒野で眠るのと違い落ち着ける寝室、気さくなもてなしの女主人……。 「ご一緒していいかしら?」 三角巾と前掛けを外して夜向けの装いに着替えたサミが、お茶を淹れてきてくれた。一緒に出してくれた、このオアシスで採れたオリーブの酢漬けは私の好物だ。一通り仕事は終えたのかな、と聞いてみる。 「もう交易の季節も終わりだものね。お客さんも少ないし、ほら……」 隣の椅子に座ったサミは掌を目の上にかざし、北の荒野を見はるかす。私も目を細めて見ると……確かに見えた。風が巻き、薄暗い塊にまとまっていくのが。 砂嵐の子供だ。 「あと十日……いえ、八日と言うところかしら」 おそらくそうだろう。 今はまだ嵐の動きも遅く、遠くから避けて通れば問題はないが、次第に逃げようがなくなるくらい、強風の範囲は広まってゆく。そうなれば、呼吸ができないほどの砂嵐の中に突っ込んで旅を続けることはできなくなるだろう。 「ピツェンさんも今年はこれが最後ね」 また来年来るさ、と私は答えてパイプをくゆらせた。ハチドリの数は少しずつ減り、花も色を失いつつある。実りを終えたオリーブは葉を落とし……つまり、そういう時期なのだ。 「ええ、また来年……」 それきりふたりとも無言だった。泉を挟んで荒野を眺めながら……。 夕食はどことなく重い空気が漂っていた。季節の終わりだからというだけではなく……。 宿に泊まっているのは私と、もうひとりだけ。南北の往復のたびにこの宿に立ち寄ると、何度か顔を見た若い男だが、去年までは会った記憶がない。大都市で流行るような妙にきらびやかな衣を身にまとっていて、旅慣れた風には見えなかった。 サミは彼に近づかないようにしていた。男の方がなにかちょっかいをかけようとしているようにも思えたが……彼女はいつも気丈に振る舞い、そういうことを客の私たちに漏らさない。 男は厨房で洗い物をするサミをにらんでいる。細い目からは何の感情も読み取れず、不気味な感じがした。 何事も起こらなければいいが……。 Scene 4 Cailous 夜だってのにハチドリが騒いでいやがるのが気に食わなかった。もう花なんてひとしきり枯れてしまった泉の周りに……泉。こんなちっぽけなオアシスにかじりついてたところで、何がある? 今日こそは、あの女に納得させるつもりだ。ここから出て行くことを……。 「ケイロス……さん? 今朝出立したはずじゃない。なぜ戻ってきたの……もう砂嵐が始まる。出られなくなるわよ」 「あんなつれない見送り方はないんじゃねえのか。砂嵐なんて知ったことか。どうとでもしてやるさ」 「荒野のどこに、黄金で購えるものがあるって言うの? うちの宿は、旅行く船の港なの。岸で座り込んだ金貸しが冷やかしに来るなんてお断りよ」 「おい、その馬鹿にしたような笑い方をやめろ」 「女を笑わせる才能はあるみたいね」 「なあ、それよりもう何度も言ってるだろう……こんなとこ出て俺と暮らしてくれないかって」 「こっちだって何度も言ってるわ。ここを? この宿はどうするの? 旅人たちはどうなるの?」 「そんなもの、誰か他の変わり者に売って営ませればいいのさ、なあ。あんたが他に生き方を知らないってんなら、どこか他の大きな街……ターブラや何かで宿をまたやればいい。なに、その程度の金なら親父から引き出せるさ、あいつは俺に甘いから……」 「……」 「いや、何も働くこたあない。東のほうの国に移って、農場暮らしだってできるさ。使用人を何人も雇って……奥様然として指示だけ出してりゃいい。なあ、サミよ。何でこんなこと言うか分かるだろう。俺はあんたに……」 「それ以上馬鹿げたことを言うのはよしたら?」 「何が気に入らねえんだ! こんな、荒野のど真ん中でどこにもいけない暮らしから引きずり出してやろうってんだぜ。金ならあって暮らしの心配ならいらねえ。どこにこんな話があるってんだ!」 「前にも言ったでしょう。私はこのオアシスを離れたりできやしないって。私は……」 「ハチドリの妖精だから、なんてふざけた話のことか? 俺は真面目な話をしてるんだ。冗談じゃ……おい、なんだこのハチドリは、飛び回るのをやめさせろ!」 「どうして欲張りなの、人間たちは……どこへでも行けるのに、どこへもいけない誰かを捕まえてどうしようって言うの? 私を手に入れて、鳥篭に飾って持って行きたいのね……いいわ」 「おい?」 「だったら私の小さな心臓ごと抱いて。どうなるのか見てみなさい」 Scene 5 Sah-Ami 女の唇が男の唇を塞ぎ、ふたりは泉のほとり、枯れかけた草の絨毯に倒れ伏した。 月の下で砂を巻き上げ、水を跳ね上げながらの貪りあいが始まり、周りで小鳥たちが騒ぎ、歌う。荒野から吹き付ける風が空気を切り裂く笛の音を鳴り響かせる。 上も下も右も左も分からないほどに絡み合った四肢が大地と宙との間を行き交い、すべてが終わったとき、互いの体は水のようにただ己の重さに任せ、溶け合い、砂地に沈み込むように横たわるばかりだった。 月がその居場所を、白みかけた薄暗い青空に譲り渡した頃、男は目覚めた。 「ああ……なあおい、驚いたな。あんただって結局は……」 傍らの茂みに仰向けに横たわる女は、目を見開いていた。 青かった瞳は白く濁り……。 金色の髪は白く褪せて大地に広がり……。 薄く開いた唇からは黒ずんだ赤い血が一筋流れていた。 「おい……おい?」 男の呼びかけに、答えはない。 声にならない声を上げ、男は駆け出した。まだ薄暗い荒野の方向へ。砂嵐の次第に強まり出した、閉ざされた大地へ。 泉のほとりに残されたのは、小さな心臓が動くのをやめてしまった、白い羽のハチドリが横たわる姿だけだった。 それもやがて……砂嵐の中に飲み込まれていった。 Scene 6 Pulick 初めて訪れてから四年が経ったが、今年もまた、砂嵐の季節が終わりを告げた後の一番乗りは私のようだった。 小さな宿と食堂、その真ん中にあるオアシス……それだけの小さな宿。もうすっかり顔なじみになった私は、女主人の出迎えを受けた。 「ようこそプリックさん! また一番乗りね。そろそろ着かれると思ったの」 相変わらず元気だね。ずっとここにいるのかね? 「ええ、どこにも行かないの。ここにいるのよ。この小さなオアシスで飛び回っているだけだわ」
by m_ot_i
| 2010-07-05 00:17
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